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TEXT 01あとがき

笹野摩耶(広島市現代美術館)

広島市現代美術館が開館した1989年、映画『フィールド・オブ・ドリームス』が公開された。主人公のアメリカ人農夫が「声」に導かれ、自身のトウモロコシ畑を切り開き野球場をつくる物語である。それから30年後の2019年夏、広島市現代美術館には谷本研+中村裕太の手によって野球場が出現した。ここでは、担当学芸員が「夏のオープンラボ:タイルとホコラとツーリズムseason6《もうひとつの広島(フィールド・オブ・ドリームス)》」の舞台裏を紹介しながら今回のプロジェクトをふりかえりたい。

会場風景 撮影=表恒匡

谷本研+中村裕太は、2014年に京都で開催した「タイルとホコラとツーリズム」(Gallery PARC、京都)を機にゆるやかなユニットを組み「タイル」、「ホコラ」、「ツーリズム」をキーワードに旅と制作を続けてきた。「ツーリスト」としてのまなざしを持ちながら旅やリサーチで出会った人々やモノ、その営みにしなやかな態度で向き合う。(これまでの活動についてはPROFILEにて紹介。)近年は京都にとどまらず沖縄や東アジアの島々のリサーチをしたり、今回は「開拓移民」を取り上げるなど、「ツーリズム」が示す人やモノの移動といった問題性により接近していると言える。

当初はシリーズ5年目の「season5」での完結が予定されていたが、表現活動の実験場として開催される「夏のオープンラボ」にてふたりに広島を取り上げてほしいと思い、「season6」開催を依頼した。一般的に、広島についてまず思い起こされるのは被爆都市としてのヒロシマだろう。広島は第2次世界大戦時の原子爆弾投下によってまちが破壊され、多くの人命に加え文化財や資料を失っている。さらに日清戦争以降に軍都として発展したが、戦後は平和記念都市として再建されたことから、過去からの連続性よりも断絶性が自ずと際立ってきた場所である。

ふたりは遠く離れた「もうひとつの広島」との関係性に目を向けることで、広島の過去と現在をつなぐ新しい視点を用意した。北海道にある「北広島市」は、広島市現代美術館が建つ比治山のふもとに位置する段原地区出身の和田郁次郎が広島県人を率いて1884年に移住し、開墾したまちである。そこには広島東洋カープに由来する少年野球チーム「カープジュニア」が存在している。北広島には広島以上に「広島らしさ」を見出せるのではないか、また、「カープジュニア」のように広島と北広島をつなげるモノやコトがあるのではないだろうかと私たちは考えた。

マツダスタジアム

対象が決まり、私たちは広島市のリサーチを開始した。段原地区に住む方々から話を聞くなかで、今はもう途絶えてしまったが、1990年代までは、小学校を中心にふたつのまちの市民同士の交流が行われていたことが分かった。しかしながら、段原地区は比治山の陰となり原爆による焼失を免れたことから戦後家を失ったひとびとが大勢移住してきたこと、1970年代から約40年間にわたる段原地区の再開発のなかでさらなる住民の移動や景観の変化が起きたことで、和田郁次郎がいた頃の段原について話を聞くことは難しい状況だった。

一方、谷本氏とともに訪問した北広島では広島に由来するものを各所で見つけることができた。和田郁次郎が建立した神社や開拓移民の名が刻まれた石碑など、開拓当時のものが残されている。さらに、公園には広島の平和公園から分火された「平和の灯」が灯り、北広島市総合体育館には広島東洋カープの黄金期を支えた衣笠祥雄、古葉竹識をはじめ北広島を訪問した選手ゆかりの品々が展示されていた。小学校の授業では和田郁次郎の功績を教え、ヒロシマをテーマとした平和学習に力を入れているといい、地域のルーツとしての広島は今もなお意識されている。このような中、北広島には日本ハムファイターズの本拠地となる「ボールパーク」建設が構想され、人々の関心がカープからファイターズへと転向しているようで、広島に対する意識もまた変容していくと想像される。和田郁次郎の義父であり和田と一緒に入植した大谷盛蔵のご子孫からは、現在の広島市、さらには比治山の歴史へと接続する話を聞いた。広島市では、1984年に「北海道移住100年記念展」(主催:広島市・中国新聞社)が開催されている。広島県人の北海道移住と開拓史を紹介する資料や、開拓者の暮らしぶりを伝える農具や生活用品が展示された。展示品のなかには、ご子息の父親である大谷義明氏から寄贈された物品資料が多数含まれており、現在は広島市所蔵となっている。

北広島市総合体育館に飾られたカープ選手ゆかりの品

広島と北広島で拾い集めた様々なエピソードは、会場でどのように展開されたのか。野球場となったミュージアムスタジオの奥にはスコアボードに見立てた年表が設えられ、北広島と広島市の交差する歴史が紹介される。その手前のフィールドでは「きたひろ.TV」の映像が守備側の選手、開拓にまつわる民具が攻撃側の選手として配され交流試合が繰り広げられる。「きたひろ.TV」とは、北広島市民の手によって、開拓以降の郷土史や地域の魅力を発信する動画配信WEBサイトだが、その映像は80〜90年代を思わせる量感あるブラウン管から流れる。フィールドに出ている攻撃側の民具は、資料をもとに「北海道移住100年記念展」に出品された民具を張り子で再現したものである。ベンチ席には同展覧会の際に大谷氏から寄贈された娯楽や生活に関する民具が待機する。作家たちは市民による映像や民具をフィールドに呼び起こし、北広島の人々が自ら語る言葉や、モノそのものが持つ物語に光をあてる。

それと同時に、イメージを重なり合わせることで、あえて視点をぼやかしていく。たとえば、ブラウン管が乗る台座はポジションの役割を担うとともに、その風貌は丸太のようである。会場を俯瞰して見ると、伐採された切り株が点在するなかに農具が置かれているようでもあり、入植者たちによる開拓作業を想起させる。加えて、「切り開かれた土地に野球場がつくられる」という筋書きは映画『フィールド・オブ・ドリームス』につながる。本展示では、このように多層的にイメージを広げていく仕掛けが随所にみられる。和田郁次郎による開拓史は、明治時代に国家事業として本格化した北海道開拓の一部であること、移住の背景には廃藩置県による失業という切迫した理由があることなど、開拓の歴史は重層的な文脈の上に成り立っている。複数の物語を横断していく展示の構造によって、見る者はいくつもの視点を横断するよう促される。

会場風景 撮影=表恒匡

本企画タイトルである「もうひとつの広島」については「北海道移住100年記念展」が、ルビで示された「フィールド・オブ・ドリームス」については映画『フィールド・オブ・ドリームス』が参照され、いずれも本展示にとって重要なモチーフとなった。『フィールド・オブ・ドリームス』は、主人公の農夫が不思議な声による「If you build it, he will come.(それをつくれば、彼がやって来る)」の言葉に動かされ、周囲に反対されながらも野球場をつくる物語であり、劇中では失意のうちに球界を去ることになった野球選手たちの亡霊、主人公の父親など多くの「彼」が登場し球場に呼び起こされる。

「タイルとホコラとツーリズムseason6《もうひとつの広島(フィールド・オブ・ドリームス)》」にもまた、複数人の「彼」が登場する。最初の「彼」にあたるのは、和田郁次郎をはじめとする移住者たちであり、また後に彼らの功績を残そうとした子孫たちである。そしてさらに谷本研+中村裕太にとって大きな存在となった「彼」は、「北海道移住100年記念展」の担当者だった。彼が1984年に書いた北広島の調査記録には、当時の北広島の景色や地元の人々との出会いが鮮やかに記されており、作家のふたりに大きな示唆を与えた。この時に収集された北広島の民具をふくむ資料は、国内移住の歴史を伝えるものとして、当時比治山に建設予定だった博物館にコレクションされることになっていたが、その後構想は凍結され今にいたる。それらの資料は大谷家の記憶であるだけでなく、「北海道移住100年記念展」のために奔走した担当者たちの物語と交わるだろう。最後の「彼」は、展示の最終日に現れた。和田郁次郎のが幼少時代の養子先である和田平内のご子孫が、クライマックス・トークを聞きに比治山の当館を訪れてくれた。こうして、和田郁次郎の足跡に導かれた本企画は遠く北海道へと広がり、地元広島にいる和田家ご子孫の登場で幕を閉じた。まさにトークの中で港千尋氏が述べた「美術家が旅や制作を行うと思わぬ出会いを引き寄せる」ことが起きたのだ。そのほか、関連ワークショップやトークイベントを含め、期間中には様々な方が「彼(彼女)」となってかかわっていただいた。自分が住む地域と北広島とのつながりを再発見したという広島の方の声や、ワークショップの活動をとおして和田郁次郎たちの開拓に想いをはせることができたという声もいただき、企画がとても充実したものになったと感じた。あらためて谷本氏、中村氏、ならびに広島市と北広島市の皆さま、本企画に関わってくださったすべての方々に深く感謝申し上げたい。

ワークショップ「キャンプイン似島」 撮影=表恒匡